三倉岳の伝説・由来

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 三倉岳の麓、大竹市栗谷町小栗林には、部落の産土神社である宮久保神社(応永元年1394建立)があり、古来三神が祀ってあるということである。この三つの神様のうちの一神である三倉大明神は、明治三年の神社取調上申書によると鬼気迫るような名称がある。
 雲を起こし雨水をもたらすクラタキの命・山と大地の神クラヤマズミの命・水の神のクラミズハノミの命は、人々が到底近づくことができない鬱蒼たる森の奥深いところにある洞窟や山の嶺等に鎮座されている岳神の名称である。
 三倉岳は、その山容の険しさのために人々にとっては近寄りがたいところであったことは、用意に推察できる。
 また里人の生活の糧となっていた森林資源の利用においても峻験な岩場も多いこの孤立した男性的な岩山の存在は大きな通行上の障害であったことも杣人の口からも伺えるとところである。
 こうしたことからこの山は、より峻厳なものであるだけに人々の畏敬の対象ともなり、聖霊の鎮座される嶽とされるに至ったのであろう。
 本来こうした高い山とか深山幽谷や景勝地などは天地の神々や神仙の宿る神秘的な霊域あるいは神域として、また先祖の霊が高いところから現世の人々を見守ってくれている場所として崇高かつ清浄な所として位置付けられたところが多い。
 この三倉岳の名称の由来も多くあるが、その倉の意味も神と人間の出会いの倉場であるとか、あるいは普通の倉のように大切なものを収めているところを転じて神様の鎮座されているところとかいろいろ言われているものである。
 【三倉岳・・・通称名で、福(朝日岳)・徳(中岳)・寿(夕日岳)の三神の倉場 − 三倉嶽・・・三倉大明神の岳 − 三鞍岳・・・三つの稜線が馬具の鞍部に似ている − 見較岳・・・三つの岩峰の美しさを見比べる意味の岳 − 宮久保岳・・・宮久保神社の神の宿る岳 − 御岳・・・神仙の住む信仰の山、修験道場の岳 − 三本槍・・・三つの急峻な岩峰が武具の槍に似ている山等々】
 したがってこの神域ともいえる三倉山岳一帯に足を踏み入れる場合は、おのずと心の引き締め、心身の清浄さが求められるということで人々は、神の怒りに触れないようにいろいろ工夫をするのである。
 それは、原始人が自然からの脅威や災害をその神秘性から神のなせる業として捕らえ、懺悔と忠誠を誓い、自然の恵に対しては感謝を奉げる等種々の儀式を行うのと同様な理由であろう。
 古老によればこの三倉岳も全国各地の女人禁制の山岳(現代では吉野の金峰山、大峰がその孤塁を守り続けていることで知られている。)の例にも違わないところであるとのことであった。
 また、この山岳一体は江戸時代前は厳島神社の社領の天領(宮島の大願寺の直割地で鞍掛山御用林は、佐伯郡栗谷村有林から大竹市市有林として引き継がれた肥沃な林地)として保護されてきたところである。
 山麗の年中行事である夏の盆踊りの気品ある「つきあげ」や「きそん」なども厳島神社の雅楽の舞と類似しているのもその因縁の深さを物語るものとされている。
 厳島神社の弥山、日宛神社(山口県玖珂郡美和町日宛)の弥山と同系等の山岳宗教との係りもあることも考察される。
 仏教の係りも少なからずあるところであり、麗の牛ヶ峠をこしたところにある寺屋敷(これは通称の地名であり、現在ゴルフ場が開設されている所で、学呂の集落があったところとして語り継がれている。人造の池とか野生の梨の木があるのは、その名残とされている。)や登山口上方の観音松の地名をはじめ禅寺の安楽寺(臨済宗)や瑞照寺(漕同宗)、万覚寺(臨済宗)もこの狭隘な地域内にある。
 そして大竹市内には17のお寺があるが、これらのお寺の開基不詳のもの(谷和の万覚寺は市内で最も早く開けた地域のお寺として知られており、昭和49年1月4日に死去された正木傅和尚さんで78代目であり、古文書も多く保存されている。)は除くとして、文書等で明らかにされて一番古いといわれている玖波の誓立寺(真宗大谷派)の本尊の阿弥陀如来は栗谷の山中から転座したものといわれている。
 【延徳年中僧教玄が真宗に改宗し、栗谷山中の霊仏を玖波の山中に転座して清流寺(応永元年、1394年建立)を設け、現代の誓立寺(元亀元年、1570年建立)に至ったものといわれている。】
 このように宗教とのかかわりは非常に深く広いものであるが、こうした地名考証等はさておき文化財としてのこの三倉岳は、その山容の荘厳さと秀麗なるがため多くの岳人にも親しまれ、今日まで広く詩歌や絵画など美の対象ともされてきたところである。
 里人にとっては、朝夕目にふれ、野良仕事の手を休めて観賞にひたる身近で親しみのある岳であり、里の人々がたえず平安であれと見守っていてくださる神様か何かが鎮座されている御殿のようなところ、あるいは祖先の霊が親鳥になっておられ極楽浄土(湟槃)のようなところとして認識されているいわば宝の山の存在といえよう。そうしてこうした美しい山々と清くすんだ川の流れを持つこの山岳一体は、現代人にとっても貴重なオアシスのような存在である。
 さて、山開きとの関連のある奉納登山についてであるが、この宮久保神社の秋の大祭(10月20日、近年は第3日曜日)には、従前「ヤマイロ」の無礼行があったが、この無礼行の代わりとして、この奉納登山がはじめられたといって良いであろう。このヤマイロは翁岩や耕中石(栗谷中学校裏手)のような三倉岳からの転石で神石として由来のあるものが発生した三倉大地震の後、凶作の年が続いたので宮久保神社に大石大明神(三倉大明神)を祀り、山の祟りを鎮めたという伝説とも係りがある。この山の神は本来は、現在の神社の位置に祀られていたのではなく、三倉の山中に奥の院のようなものがあったといわれ管理上現在のところに移されたのであろうとのことである。この山の神は、面白い事に人間が非常にお好きな上に賑やかなのが格別お気に召すといわれている。そして年一度、この山の神や氏神様に神楽を奉納するわけであるが、この時神楽見物に来ている観客を、神社の入り口に張ってあったしめ縄(年に一度新しいものと取り替えられ、この場合、使用されていた古い方のしめ縄)の両端を元気のよい数人の若者が持ち、口々にヤマイロ、ヤマイロと叫びながら荒々しく引っかけ廻すのである。このヤマイロの意味は、ヤマすなわち三倉岳にイロ、すなわち入山して汚れている人々の心を清めようということであるといわれている。このしめ縄に触れた人は、清められるという一種の技でありワラ龍の別名がある。(東北の青森県御所川原市のもこれと似た祭事があり興味深い)そして、このヤマイロの賑やかな儀式がすんだ後のしめ縄は、神社の御殿の裏の古い年代の大きな蔓に、天まで昇って龍となり天地に光と淳い雨水をもたらし、豊年が続くよう祈願されつつ巻きつけられるのである。このワラ龍に触れることの出来なかった人は、登山口の神ヶ原で技を受けて身を清め、神々の許しを得てから三倉山中に入山して精進するということであり、元気な者は、三倉登山を勇ましく試みていたということである。これが奉納登山の由来である。
 近年多くの岳人の訪れるところとなるにつれ、登山事故も発生し始め、ロッククライマーの同好の仲間が数人集まって、三倉岳の5合目の動乱岩の下で登山の安全を祈願するザイル祭りを催していたものである。また麓の部落では毎年春になると花祭り(4月8日、麓のお寺では、釈尊の御生誕を祝う花祭りを催し、子供達は竹の筒に甘茶をいただいて帰るようなことも行われていた)や、春分の日に代表されるように、自然を讃え生物を慈む風潮もありこれらは次第に三倉岳の山開きへと発展していったのである。花咲き鳥啼う好季節の初夏の候にこの地域ぐるみの祭典は催されることとなり、第1回目は昭和43年5月12日(日曜日、母の日)に明治百年記念行事も兼ねて盛大に挙行されたのである。以来、関係者の尽力と協力により毎年着実に実施されてきたもので、今年で8回目を迎える

       1975年発刊みくら第3号より

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